1933年9月、東寧縣城戦闘に共産遊撃隊の一員として参加しながらパルチザン生活を始めたこの青年はときには金聖柱、時には金日成という仮名で活動し、中国人の直属上司たちの寵愛を受けたはずだ。なぜなら当時、共産遊撃隊活動に従事した人々はほとんどが文盲だった。中学教育を受けて中国語と漢文を読み書きができる金日成の存在は非常に貴重な役割をしたはずだ。

 中国共産党遊撃隊内の韓人幹部たちを大々的に粛清する民生団の嵐から彼が生き残ったのは、同僚や上司たちをすさまじく密告したか、中共党の絶大な信任を得る走狗の役割を忠実にしたためだ。

 李命英をはじめ何人かの研究者たちの研究通り、金日成が複数人だったという多人説によれば、普天堡襲撃の栄光は、金亨稷の息子で今日の北韓の‘敬愛する首領様’ではなく、モスクワ共産大学へ留学しソ連共産党から派遣されてきた人物に回さねばならない。また、普天堡を襲撃した主人公は1937年11月、満州軍の討伐隊に射殺され、第2の金日成が再びソ連から派遣されてきた。

 第2の金日成は、龍井大成中学出身であり、間島で起きた5.30暴動のとき行動隊長で、牡丹江一帯で隠れていて金佐鎮将軍を殺害した後、ソ連へ逃走して赤軍士官学校を卒業した人物だ。彼は、第1の金日成が討伐隊によって射殺された後、ソ連共産党の指示を受けて満州に派遣される。

 彼は満州で討伐隊に追われてソ連領へ脱出、オケヤンスカヤの野営学校の責任者兼軍事政治課教官として勤務し1944年、病気で死亡する。

 李命英など何人かの学者たちの主張通り、ソ連赤軍士官学校を卒業し、ソ連共産党の命令で満州に派遣された‘第2の金日成’が1944年秋までオケヤンスカヤ野営学校の責任者だったが死亡したなら、ハバロフスク近くのビヤツクで訓練を受けて北韓に帰って‘最高尊厳’の地位に就いた金日成は‘第2の金日成」ではなく、金亨稷の息子金聖柱だ。

 金日成多人説によれば、高東雷小隊を皆殺しし、あちこちに隠れて生きていた金聖柱は、命を維持するために1933年9月22日、中国救国軍の呉義成部隊と東満州共産遊撃隊の汪清遊撃隊 (隊長梁成龍)が合同作戦した東寧縣城戦闘に梁成龍部隊の一個小隊として参加して共産パルチザン運動に正式に身を投じる。この時から抗日パルチザン隊員として活動して最後まで生き残ってソ連領へ逃走してビヤツクまで行ったと見られる。

 一方、金日成1人説の立場を取るなら、彼は1936年に東北抗日連軍第1路軍第2軍第6師長になり、1937年6月4日には普天堡を襲撃して自分の首に巨額の懸賞金がかけられるほど有名になった。彼が一人だったら1937年11月13日、撫松県楊木頂子の山中で満州軍討伐隊によって射殺されたのは金聖柱ではなく、別の人物だったはずだ。

 討伐隊の執拗な討伐作戦によって急激に勢力が縮小された東北抗日連軍は部隊を改編した。この時、金聖柱は第2方面軍長に任命されて再び活発な活動を再開して討伐隊を衝撃に陥れた。射殺された金日成が蘇ったからだ。

 1940年12月、野副昌徳討伐隊の強力な討伐に押されてソ連領へ逃走するまで、金日成が一人であれ数人であれ、金日成という名前を持つ人物たちの満州でのパルチザン活動期間は約7年だ。この期間中、金日成がやったという抗日武装闘争は、祖国の光復とか朝鮮の解放とはあまりにもかけ離れたものだった。終始一貫、満州軍の討伐に追われ逃走、食料獲得のための民家襲撃や略奪、良民拉致がほぼすべての活動だった。

 しかも、彼が指揮した部隊は100人から200人を超えない中隊級規模で、正規戦でもなく小規模単位で動きながらパルチザン活動をしたのがすべてだ。金日成の公式・非公式伝記らが口を窮めてほめる‘普天堡戦闘’の指揮者が、北韓の指導者となった金亨稷の息子・金聖柱の作品であるとわれわれが認めることにしよう。

 戦闘とは相手となる敵がいなければならないのに、当時の普天堡には対応する敵がなかった。したがって、これは戦闘ではなく一つの事件に過ぎない。100人未満の兵力で、対抗する日本軍もいない、駐在警察5人に過ぎない小さな国境の山村に現れて銃を乱射し放火し食糧と金品を略奪して去ったのを‘戦闘’と美化賛美する。これが金日成最大の傑作だというから、残りの彼が満州の大地で行ったという抗日戦闘ないしは遊撃戦の実状は見なくてもその実体が明らかだ。

 これが金日成が全生涯の中で最も輝く抗日闘争という‘普天堡戦闘’の辛い実状だ。軍事専門家の張浚翼は、金日成の抗日闘争を軍事的に評価すれば“日本軍の討伐作戦に対して小規模に分散して浸透、逃避および逃亡に長けた”と整理する。

添付画像
 ソ連へ脱出してソ連軍傘下の88特別偵察旅団の時代にも金聖柱はその地域のKGBの責任者だったソ連極東方面軍司令部の偵察局長ジョルキン少将の寵愛を受けた例から見て、親ソ連的な意識構造へ自分の情緒を素早くフォーマットしたと思われる。ビヤツクで88旅団時代の金日成と一緒に生活した朴宇燮はこう証言する。

 “ソ連人たちはわれわれ抗日連軍の人々を信じず、頻繁にトラブルが起きたが、金日成は一度もソ連人たちと衝突したことがなく、ソ連人たちは金日成に特別待遇をするようだった。”

 今日、北韓側が大げさに宣伝する金日成は、その存在が一人であれ数人であれそれは重要な事実(fact)でない。最も重要な核心は、彼がどういう抗日闘争をし、韓民族の歴史発展の過程で順機能をしたのかその逆なのかである。

 金聖柱は子供の頃から満州という荒い環境と疾風怒涛の渦巻きの歴史に裸でさらされて国家観や歴史観が正しく確立されなかった状態で、中華思想に支配され満州一帯の共産主義の影響を受けて馬賊や人命殺傷に明け暮れた。中国共産党遊撃隊のパルチザンとして入山した彼は、満州地域一帯を殺人者として逃げ回った時期に体得した乱暴な暴力性を遺憾なく発揮して中国共産党幹部たちに忠誠を尽くし、自分の国籍である中国に忠誠し、中華祖國の擁護と失地東北の回復のため昼夜を問わず活動した。

 中国国籍者として中国共産党に入党して中華祖国の擁護と失地東北の回復闘争の先頭に立ったが、中国を脱出してソ連へ逃げてソ連軍所属になった彼は、素早く事態の本質を把握する。自分が仕えるべき上国と忠誠を尽くすべき相手を中国と中国共産党からソ連とソ連共産党へと素早く変えたのだ。(つづく)

2016/10/13 15:21 2016/10/13 15:21
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  1. プルミエール時計コピー 2017/09/05 09:41  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

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