李命英は、北韓の指導者になった金日成は自分の本名を‘金成柱’と主張するが彼の本名は‘金成柱’ではなく‘金聖柱’と言った。これは彼の小学校時代の友人と青年時代の友人と知人たちの証言、日本の吉林総領事館の資料からも確認できる事実だという。それだけでなく、解放後、北韓側もしばらくは金日成の本名を‘金聖柱’と認めたことがある。

 李命英は、金聖柱の漢字表記が‘金成柱’に変わった事情には重大な理由が隠されていると主張する。李命英の主張によれば、金聖柱は満州で中共党遊撃隊の第6師長・金日成(第1の金日成)と第2方面軍長・金日成(第2の金日成)の部下だった人物だという。ところが、A-1、A-2、B-1、B-2が全員死んだ後、解放されるや金聖柱はこの四人の人物が行ったすべての活動をすべて合わせて自分がやったように捏造した。この偽者の人物を‘伝説的な抗日闘争の名将・金日成’であると持ち上げたのが北韓駐屯ソ連軍政のロマネンコ民政司令官だった。

 東京の朝総連傘下の朝鮮大学校教授として北韓原典を通じて金日成を深く研究した許東粲は1931年から1936年までの5年間、2人の金日成が活躍したと主張する。1人は中国共産党汪清遊撃隊政治委員だった金日成だ。彼は1932年7月、延吉県依蘭溝遊撃隊員だった。当時、彼の年齢は30歳、1934年1月には中共党東満遊撃隊汪清大隊の政治委員、1935年3月から9月までは東北人民革命軍第2軍独立師の汪清連帯中隊長だったが、この年の年末に彼の名前が漢字で‘金日成’であることが明らかになった。

 もう1人は北韓の指導者になった金日成だが、彼は1932年7月には吉林省蒙江県にいて当時の年齢は21歳で中共遊撃隊員でなかった。彼が汪清連隊に包摂されたのは1934年8月だった。彼は1935年7月から1936年1月まで琿春連隊に派遣されたが、彼の当時の漢字名は‘金一星’だった。許東粲は以上の根拠で1937年6月4日の夜、普天堡を襲撃した金日成は、北韓の指導者になった金日成とはまったく関連のない事件だったと主張する。

 許東粲はまた、北韓の指導者になった金日成が‘金日成’という通名を使い始めた年代が政敵の粛清、唯一思想体系の確立、後継者の金正日の確立のように権力維持の手法が極端化していくのにつれて、1932年から1930年、1928年に遡る奇妙な現象を発見した。

 本名である金聖柱の漢字表記の3つ(金聖柱、金誠柱、金成柱)は金日成が解放後、これが自分の本名であると1回以上言及した事実があり、また文献にも記録されている名前だ。分かりやすく言えば、金日成は公式的には漢字で成柱と表記しながらも暗黙的には聖柱と誠柱を認めている。それでは、本名の漢字表記は果たしてどちらが本物なのか。

 許東粲は私見と断って次のように推理する。金亨稷が満州で得た三男の名前が永住だったが、これがあいにく弟の金亨禄の息子の名前と同じだった。そのため、母方の祖父の康敦煜が1923年ごろ、金亨稷の息子の名前を金聖柱、金哲柱、金英柱に変えたという。

 金聖柱は1929年5月、吉林の毓文中学在学中の朝鮮共産党青年会事件のため逃げた後は、聖柱を成柱あるいは誠柱と変えて危機を免れた。聖柱は中国語で読めば‘センジュ’で、成柱と誠柱は‘チェンジュ’と発音されるためだったという。

 李命英は、1920年代後半と1930年代初めにA、Bタイプの外に、金一成(キムイルソン)という名前を使う2人の存在を見つけた。1人は北京で活躍した金一成で、1926年10月に発足した韓国独立唯一党北京促進会の発起人名簿の中にあった。

 もう1人の金一成は1930年代初め、ソウルで文筆活動をした金璟載だ。この人は前回に紹介した5番と同一人物だ。金璟載は水原農高を卒業して東京に留学し、植物病理学を勉強してから上海を経て南北満州とロシアなどを放浪しながら民族運動をした。帰国してから火曜派共産主義者たちの重鎮として活動したが、1925年に朝鮮共産党第1次党事件で投獄された。出獄後『朝鮮之光』などいくつかの雑誌に多様な筆名で執筆活動をした。

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 ‘金日成伝説’の実存人物である金光瑞

 李命英は、咸鏡北青郡で1887年生まれ日本陸軍士官学校を卒業した金光瑞が‘本物の金日成’だと主張する。彼は金日成という仮名の外にも金擎天と仮名を使用し、日本側の資料や国内の新聞には‘日本陸士出身の金擎天’あるいは‘日軍中尉だったが不逞団の首領になった金光瑞’などと記されている。李命英が究明した金光瑞の履歴や活動は以下の通りだ。

 金光瑞は日本陸軍士官学校を1911年卒業(23期)、日本陸軍少尉として任官した。3.1運動が起きたときは東京第1騎兵連隊にいた。東京の朝鮮人留学生たちを中心に万歳運動が起きる気運が成熟するや、彼は病気休暇を得てソウルに戻って日本陸士3年後輩である池錫奎(池青天、李晴天)、李應俊などと共に満州へ亡命して抗日武装闘争を展開する計画を話し合った。

 ソウルに来た金光瑞は、憲兵の監視を避けるためソウルの有名な妓楼や中華料理店を出入りして放蕩な生活をするように偽装し、一時は義親王・李堈の恋人と浮名を流した。金光瑞は1919年6月、池錫奎と一緒に新義州を経て満州へ亡命した。2人は南満州の柳河県孤山子にあった独立軍養成所である新興武官学校で青年たちに軍事学を教えた。

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 この学校には旧大韓帝国軍官学校出身の申八均もいた。この3人は祖国光復のため闘争することを約束し誓いの意味で共に‘天’の字が入る号を作ったが、申八均は東天、池錫奎は靑天、金光瑞は擎天だった。後に彼らは‘南滿三天’と呼ばれた。

 1919年の冬、武器購入のためロシアに渡った金光瑞はそこの韓人たちがシベリアに出兵した日本軍に虐殺される現場を目撃した。彼は韓人青年たちを集めロシア赤軍と連合して日本軍と戦った。1920年代前半の海外独立運動に関する記録には金光瑞に関するものが多い。代表的な記録は次のようだ。

 ○“1922年2月中旬以降、東部シベリア、特に沿海州で白軍が衰退して赤軍が台頭するにつれて金光瑞が率いる約6百人の鮮人團が赤軍に加担した。最近、イマン付近で白・赤両軍が衝突した際に、彼らは皇軍(日本軍)に抵抗したが、その勢いは恰も武力復興を感じさせる。”(朝鮮軍参謀部の沿海州方面情勢報告文書<朝特報>第17号、1922年5月23日)

 ○“近来、ロシア領沿海州およびウスリー地方での金光瑞の勢力は次第に文昌範や李東輝の勢力を凌駕するだろうという。彼は今はイマン付近に約1千人の一団を編成して屯田組織による軍事訓練を実施しているという。だが、この部隊が果たして赤軍の一部であるかそれとも赤軍の諒解のもとで成立した純粋な不逞鮮人団体であるかは確実でない。”(朝鮮軍参謀部、<朝鮮内の一般情況を報告>、1923年7月5日)

 東亜日報は1923年7月29日付に‘氷雪のシベリアで紅白戦争の実地経験談。俄領の朝鮮軍人金擎天’という見出しで金光瑞とのインタビュー記事を掲載した。他にも1979年にモスクワで出版された金マトウェイの著書『遠東においてのソビエト主権樹立のための闘争においての韓人国際主義者たち』という本にも金擎天の経歴が紹介されているが、李命英が主張する内容とほぼ同じだ。(つづく)

2016/10/30 03:28 2016/10/30 03:28
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