これら複数の金日成の存在についてソ連派として入北して一時期、北韓の高位職にいたソ連系朝鮮人の林隱(*許眞=許雄培)は、自著の『金日成正傳』で上に列挙した人々は1930年代後半から1945年解放されるまで、日本軍と警察が討伐するため必死だった、北韓の最高指導者となった金日成でないと主張する。

 上に紹介された複数の金日成の中で東北抗日連軍の金日成として推論し得る人物は金光瑞(金擎天)だ。ところが、林隱は金光瑞は1930年代に中国の東北地域に行ったことがなく、東北抗日連軍傘下の武装部隊に加担したこともなく、ソ連では1920年代に金光瑞を金副尉(副位は中尉という意味)と呼んだと主張する。

 林隠が主張する金光瑞の履歴だ。1930年代前半まではウラジオストクで‘韓族軍人グラブ’を組織して抗日力量を結集しようと努力したが成果を上げられず失意の日々を過ごし、極東朝鮮師範大学で軍事教官、日本語講師として勤務した。彼はソ連当局に招聘されて軍事専門家として赤軍創建を助け、1933年から3年間投獄されたが釈放されて1937年に中央アジアのカザフスタンへ強制移住された。

 金光瑞はカザフスタンでコルホジュの作業班長という末端職で労働をして1939年に再度逮捕された後、消息が途絶えた。一説によれば、彼は1939年に逮捕されたが、第二次世界大戦が勃発するや志願して独ソ戦争に参加したという話もある。彼はロコソープスキー将軍の下で大佐の階級に師団を指揮し、1945年初めに戦死したという説があるが確認は難しい。

 このような証拠をあげて林隠は“北韓の執権者の金日成は1930年代後半に東北抗日連軍で楊靖宇、王德太、魏拯民などの指導の下で2軍3師長として(あるいは1路軍の6師長として)、第1路軍第2方面軍の指揮官として活動した人物であり、普天堡戦闘の組織、執行者と見ることができる”とし、金日成が複数人だったという李命英の研究内容を反駁した。

 林隠の主張は‘ありのままの金日成’を見るべきだということだ。金日成は中国共産党の一員として抗日パルチザン活動をしたのは事実だが、彼は特出した人間でなく卓越した功績を立てた人でもない。今日、北韓が宣伝するような傑出した「霊将」ではなおさらないということだ。

 林隱はその理由として、金日成の活動地域が東南満州地帯だったという点、関東軍が中国大陸への侵略を本格的に始めた時期であってため国庫から軍事費を最大限に引き出す目的で大々的にマスコミを利用して強敵と戦っている印象を与えるため、金日成の活動を誇張したためだったと分析する。林隠は、取るに足りない普天堡戦闘と甲山光復会事件などが金日成を一躍抗日闘争のスターにしたが、そのように金日成をスターにしたのは日本軍国主義者たちと関東軍だったと指摘する。

 聖公会大学の韓洪九も、抗日英雄としての金日成の評判は植民地朝鮮の特殊な状況の中で、多分に誇張された側面があるのは事実だが国内の一部の学者たちが主張するようにとんでもない嘘ではないと反駁する。

 韓人たちの間島への移住史

 では、本当の金日成は誰なのか。解放後、ソ連軍大尉の軍服を着て現れてソ連軍政の後援を受けて北韓の指導者になった金日成という人物の本当の人を追跡する前に、韓人たちの間島移住史を先に調べて見よう。

 間島とは満州吉林省の南東部地域で、中国では延吉道と呼ぶ地域だ。満州族が建てた清は、山海關を超えて北京を都として定めた後、満州族の神聖な発祥の地を保護するという名目で1677年、興京以東、伊通以南、鴨緑江と豆満江以北の地域を封禁地域と決めて中国人や韓国人の進入を禁じた。これによって清と朝鮮の間にある島のような地という意味から由来した地名が間島だ。

 19世紀半ばからロシアが東南進を開始しながら青・ロの間で1858年の愛琿条約と1860年に北京条約が締結されて、ロシアが清の領土だった沿海州を手中に入れる。こうなるや清はロシア人たちに対抗する緩衝地帯の建設のため1875年から満州一帯に設定した封禁を解除し、辺境地を開拓する必要性が生じた。

             <1920年代の西北間島の武装独立軍部隊>

添付画像

 19世紀半ば、韓人たちが飢餓と貧困に耐えらず鴨緑江と豆満江を越えて西・北間島と沿海州に移住した。特に、1869-1871年に咸鏡道と平安道地域が大凶年で多くの人々が川を渡った。間島への移住初期に韓人たちは茂山、鐘城、会寧などから豆満江を渡った後、水辺の谷に沿って海蘭江以南一帯に集落を形成して稲作を始めた。

 清が1875年封禁令を廃止するや多数の韓人たちが西間島に渡り、佟佳江流域の通貨県を中心に定着した。また、中国の山東、河北地域の飢饉で流民たちが満州に押し寄せてきた。清は封禁政策を解除した後も、在満朝鮮人の土地所有権を認めず小作権のみを認たため朝鮮人の土地所有は非常に不安定だった。

 1920年代になると、毎年80万から100万人の中国人が万里の長城を越えて満州へ移住し1923年から1930年まで満州の純人口増加は約278万人、満州地域の中国人は約3,000万人に達した。

 間島は白頭山を中心に北間島(あるいは東間島)と西間島に分けられる。西間島は鴨緑江と松花江の上流地方である白頭山一帯で、集安、通貨、柳河、懐仁、寛甸、臨江、長白、撫松、興京、海竜県が位置している。北間島は琿春、汪淸、延吉、和龍の四縣に分かれる豆満江北部を指す。間島といえば普通は北間島を指すが、広くは額穆、敦化、東寧、寧安、安図県までを含む。

 1919年の3.1運動後、多数の韓人たちが中国の安東省、奉天省、吉林省、間島省に移住したが、この地域を東邊道と呼んだ。民族運動家たちの北間島への亡命は1908年頃から始まって1930年には東邊道地方を中心に定着した韓人が80万人となった。満州国が建国された1932年以降は、朝鮮総督府が農耕地が不足している朝鮮南部の農民を半強制的に鮮滿拓殖会社などを通じて満州へ移住させた。その結果、1945年満州在住の韓人は216万人に増加した。

 日本軍の討伐を避けて韓半島から満州地域に移動した独立軍部隊は、間島に移住してきた同胞たちと一緒に荒蕪地を開墾して生活の土台を作った。そして祖国の独立を勝ち取るため、独立運動団体(耕学社、重光団、新民会など)を組織し、独立軍を養成するため教育機関を設立して対日抗争力量を培養した。北間島へ亡命した李相卨、李東寧、鄭淳萬などは教育を通じて独立思想を鼓吹させるため吉林省延吉県龍井村に瑞甸書塾を設立した。このように独立志士たちが満州一帯に学校を設立し、大小の団体を作って武装抗日独立運動を展開した。

 1919年に国内で3.1運動が起きるとその余波が満州地域に波及してそれまで構成されていた各独立運動団体が武装して独立軍を形成し始めた。1919年の年末まで東滿地域には、大韓国民会議国民会軍(司令官・安武)、軍務都督府(司令官・崔振東)、大韓独立軍(司令官・洪範図)、北路軍政署(司令官・金佐鎮)などの独立軍が結成された。南満地域には、韓族会議西路軍政署(司令官・池青天)、大韓独立団(司令官・朴長浩)、大韓青年団連合会義勇隊(総裁・安秉瓉)など、30以上の独立軍部隊が創設された。1919年4月、中国の上海で大韓民国臨時政府が樹立された。(つづく)

2016/11/06 06:03 2016/11/06 06:03
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