国軍とUN軍は、夫・東英を乗せたトラックがあたふたと北へ去った翌日、S市に入城した。自分たちのことを知っている住民たちの目を恐れた貞仁は、夫との分かれを哀しむ間もなく、姑と子供たちを連れて、ごったがえす避難民たちのなかにまぎれこんだ。残敵を掃蕩しながら北上する国軍の先発隊は、東英の家族にとってはまさに恐怖そのものだった。占領時代、人民軍側に積極的に協力した者や、潜伏している民間服姿の人民軍に対しての即決処分が、悪性の流言蜚語となって、党員の家族はもちろんのこと、人民軍への些細な協力者であっても、国軍先発隊の手にかかれは、片っ端から銃殺されるといううわさが流布されていたからだった。
 しかし、そのような恐ろしいうわさが流されていたにもかかわらず、貞仁と姑は、しばらくは北の方へ向かった。国軍とUN軍の後にぴったりつくことの危険はあったが、少しでも夫や息子に近づきたいという切ない心境からだった。それにまだ、彼女たちの胸には、すぐに戻ってくると言った東英の言葉への信心が生きていた。子供たちの歩みまでが、あたかもちょっと家を開けた父親を迎えにでも行くかのような軽い足取りだった。
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 しかし、いくら自分の家に戻る避難民を装っても、北へ向かうにはやはり限界があった。とくに、ソウルより北へ行くには、単に厳しい検問を受けねばならぬだけでなく、生命の危険さえ覚悟しなければならなかった。まる二日かかってソウルに到着した貞仁一行も、それを知ってからはそれ以上北上するのを諦めざるを得なかった。
 ソウルに留まって東英を待つしかないと決めたものの、さしあたって三人の幼い子供を抱えた一家五人の生計が問題だった。東英がいっとき身を隠すために備えておいた下渓洞の家は、爆撃で跡形もなく消えていたし、S市に行くとき、知人に預けてあった恵化洞の本宅は、逮捕される危険があるために近寄ることができなかった。身につけていたいくばくかの宝石と衣類があるとはいっても、彼ら五人の家族の十日分の食料と換えるぐらいのものだった。
 それでもソウルに戻ってからしばらくの間は、避難からいち早く帰ってきたか、もともとソウルを離れなかった知人の助けを受けることができた。彼らの中には、比較的戦争の打撃の少なかった職種に従事していた人がいて、米や衣類を分けてくれたのである。しかし、彼らの救けも長くはつづかなかった。表面では、彼らにもこれ以上分けて上げる余裕がないということだったが、本心は違っていた。越北したこちこちの左翼分子の家族の面倒を見てやったことで降りかかる災いを恐れたからだが、それは特に、ソウル市人民委員会時代の東英をよく知っている人ほどひどかった。

統一日報1989年11月10日付 4面掲載
2010/03/15 10:51 2010/03/15 10:51
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