第1章 金聖柱時代

 複数の金日成たち

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 日本に国を奪われる前の1907年に義兵たちが決起したとき、そして1919年の3.1運動直後から解放されるまで、東南満州と北韓の国境地域一帯には‘抗日闘争の名将、金日成将軍’の物語が広く流布していた。白馬に乗った将軍が縮地の術を使って鴨緑江と豆満江を渡りながら神出鬼没の戦いで日本軍を打ち破ったというのが主な内容だった。特に、‘金日成将軍’の噂は解放される10年前からさらに広く流布された。追跡してみると、事実と伝説が入り混じって巨大な神話が作られたのだ。(*左写真は日本陸士出身の金日成。1877年生まれ、本名は金光瑞。騎馬中尉のときの写真)

 興味深い事実は、金日成将軍の漢字表記は4つ(金日成・金一成・金一星・金日星)もあることだ。学者たちの研究を総合すると、金日成の存在を究明する作業にはいくつかの流れが存在する。

 第一、北韓の御用学者たちの金日成関連著作物らだ。この著作物らは中国の東北抗日連軍の活動や成果を金日成個人の役割として捏造して人為的に金日成を偉人化している。

 第二に、在米韓国人学者である徐大肅教授が1968年、『朝鮮共産主義運動史』という著書を通じて、北韓の金日成が北間島の中国共産党遊撃隊に入ってかなりの地位に上がり、1937年6月4日の普天堡戦闘をはじめ、多くの戦功をあげたと主張した。いわば‘金日成1人説’を主張したのだ。

 第三に、南韓の一部の学者たちの観点で、本当の金日成は大昔に死亡し、北韓の指導者になった金日成は偽者という観点だ。

 第四に、‘金日成’と呼ばれた複数の人が存在したという‘金日成多人説’だ。まず、金日成を研究した学者たちが究明した複数の‘金日成’の存在を追跡すると、次のような記録らが発見される。

①“伝説上の金日成は日本陸軍士官学校を卒業し、朝鮮の独立のため勇敢に戦った男と同一人物で、この金は1922年満州で凍死した。”(以北、『金日成偽造史』)

②“金日成は1920年代に満州一円にあった民族主義の戦闘組織である正義府に加担して1931年に病死した。”(金昌順、『北韓15年史』)

③“金日成は伝説の金楊寧という韓人だが1937年、日本軍との戦闘で戦死した。”(金昌順、『歴史の証人』)

 金日成研究家であるハワイ大学の徐大粛教授は、金日成という名前を持った共産主義活動家を次のように紹介している。

④“第1次党(高麗共産青年会)から東方共産大学へ派遣された21人の学生の中に金一星という人がいた。この男は慶尚北道金泉出身の金琮洙(ラストキン)と同一人だ。金は1928年に東方共産大学を卒業した後、朝鮮に帰ってきて第4次党の共産主義活動に参加した。”

⑤“1930年代に『彗星』、『第一線』その他の主導的な朝鮮雑誌に金一星というペンネームでいくつかの記事が掲載された。この記事は当時のいろんな問題に関する記事で、共産主義活動を回想したものもある。この人は金璟載で、第2次党事件に連累されて検挙されたことがある。彼はかつて『朝鮮之光』の編集者でいろんな名前で記事を書いた。”

⑥ “M・L党の文書綴りには第4次党の北京支部に金日成という人がいたという記録がある。彼は支部長で、金ソクリンの指導のもとで仕事をした彼と一緒に仕事をした人々の中には李ヨウンシク、崔ファン、元フン、金ヨンチャンなどがいた。後に金日成という人が北京で高麗共産青年会のために『革命』という雑誌を編集し出版した。”

⑦“第1次間島共産党事件の後、没収された文書には金日成という人が延吉県の小さな共産主義一線組織である修養会の教育委員長だった。この組織の責任者は李仁秀だった。”

⑧“第1次間島共産党事件後、朝鮮共産党満州総局の北満局組織部長の金殷漢(火曜会員)は、法廷で次のように証言する。彼は1926年に初めて満州の共産主義運動に加担し、委員長の姜ファインの命令で高麗共産青年会のメンバーである金一星という人と一緒に阿城縣地区に派遣された。そこで彼は金日成と一緒に1927年1月から3月まで2ヶ月間、共産主義を宣伝した。”

⑨“1920年満州とロシア領沿海州には金一成という人がいた。彼は当時30歳で、中国服を着て1920年12月27日、元山を経て朝鮮に入った。この金一成は1920年12月10日から20日まで沿海州のイマン(Iman)で行われた小規模の韓人共産主義者の会議での決定によって朝鮮に派遣された。金と一緒に派遣された人々は金チャンウォンと李ルンだった。

⑩“満州の共産主義機関紙の一つである『赤旗』の1930年3月号には金一星の死を追悼する記事が掲載されている。 "

⑪“第4次間島共産党事件、あるいは‘5.30事件’のとき、金一星と呼ばれる者が共産主義者の一団を率いて龍井市街地を破壊した。”

 さらに不思議なのは仮名であるキム・イルソンを表記する漢字が4つもあり、本名である金聖柱の漢字表記も金聖柱、金誠柱、金成柱など三つもあるため非常に混乱させる存在がまさに金日成だ。このようにいろんな本名と仮名が存在する理由はいったい何だろうか。

 金日成の研究で有名な李命英は著書の『金日成列伝』で金日成将軍の伝説に登場する‘金日成’という人物は確然と異なる2つのタイプがあると指摘した(これを便宜上A、Bタイプと呼ぼう)。Aタイプは祖国の光復のための武装抗日闘争、Bタイプは中国の共産革命のため闘争するという口実の下、共産匪賊的略奪と殺傷を恣行した人物だ。

 まず、Aタイプには二人が現れる。A-1は1907年の義兵闘争のとき、実在した人物だった咸鏡南道端川出身の義兵長・金一成で、本名は金昌希だ。1926年に死亡した。A-2は1919年から武装抗日闘争をした日本陸軍士官学校出身の金日成である。二人の抗日闘士の活躍が混同されて一つになって恰も一人のことのように伝説と化してAの神話が作られた。

 Bタイプは、満州の中国共産党遊撃隊で活動した人々だが、ここにも二人の金日成が登場する。B-1は1936年初めから満州の東北人民革命軍第2軍第3師だったが、しばらくして東北抗日連軍第1路軍第2軍第6師に変わったが、その師長の名前が金日成だった。李命英はこの日とは1937年11月、満州軍討伐隊に射殺されたと主張している(これを便宜上、第1の金日成と呼ぶ)。

 第6師長の金日成が射殺された後、その地位を承継した人がいて、その人は第6師長の肩書だけでなく、前師長の‘金日成’の名前まで承継した(B-2)。この2代目の第6師長の金日成は1937年初めに部隊の改編によって東北抗日連軍第1路軍第2方面軍の軍長となるが、1940年12月に討伐隊に追われてソ連領へ逃走し、1944-45年の間にソ連で死亡したと李命英は主張する。

 北韓の指導者になった金聖柱は1945年10月14日、平壌市群衆大会の時から‘金日成将軍’として振舞ってきた。李命英は、金聖柱がAタイプの武装抗日闘争履歴を名乗ろうとしたが20-25年の年齢差のため不可能になるや、Bタイプ、つまり中国共産党遊撃隊の第6師長の金日成とその名前を承継した第2方面軍長の金日成の活動期に合わせたと説明する。(つづく)

2016/10/23 03:06 2016/10/23 03:06
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  1. プルミエール時計コピー 2017/09/05 09:40  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

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