文章研究会・メールマガジン
No.038 (2012.01.03), Par Endoh.
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≪年賀状≫
今年も私の三が日は年賀状の執筆に明け暮れた。多くの方は年末のうちに投函していると思われますが、天邪鬼の私は年が明けないと年賀状は絶対に書かない。「明けてもいないのに『明けまして・・・』とは中々書けない」などと言い訳をしてみるが、多勢に無勢、冷ややかに眺められてしまう。なぜなら、年賀状は「虚礼」にすぎないからだ。
IDEE-124号(2011.12)にも、二言居士による「年賀状の倫理」という少々「ひねくれた」つぶやきが書かれている。しかし本音で言えば、年賀状の効能は「そういうこと」なのだろう。郵便局――いまだに、こう呼んでしまうが――は、12月25日までに投函せよとCMを流していた。こういう実態を考えれば、発行元すら「虚礼」を自覚しているのである。最近は、インターネットによる年賀送達が無料で行われている。配信先とコメントを書けば、はがき形式にして元旦に送信してくれる。つまり紙から電子に変わろうとも「虚礼」は続く。この理由なき継続性が面白い。
さて、「虚礼」と一言で語ってしまうと無駄なものという印象になる。しかし、本当に無駄なのだろうか。二言居士は「出すこと自体に意味がある。『虚礼』として」という。つまり虚礼であると言いつつも、虚礼の効能は認めている。となれば虚礼必ずしも虚礼にあらずということなのか。考えてみれば、日頃の挨拶も虚礼といえる。顔を合わせるから挨拶する。特に親しいからでもなく、目上や上司だからでもない。朝の散歩でも、誰彼構わず会えば挨拶する。まあこれは人数が少ないからで、おそらく市民マラソンのように多数の人々がいれば、挨拶を交わすこともないだろう。また最近のことは知らないが、昔は登山コースで出会えば必ず挨拶をした。これは遭難時の捜索にも役立つので、実用的な挨拶と言える。しかし挨拶そのものは、間違いなく「虚礼」である。
新潮国語辞典で「虚礼」を引くと、「実意のないうわべだけの礼儀」とある。「実意」を引くと、「①親切な心。②真心。本心」とある。我々が交わす挨拶は「真心のない挨拶」なのだろうか。「そんなことはない」と即座に否定できない自分がわびしいが、挨拶なんてものは元々虚礼なのだ。しかし一般社会にとっての約束事でもある。だから「挨拶もろくに出来ないやつは・・・」というのが社会の一般的な見方なのである。
東日本大震災の後、公共広告機構は呆れるほどCMを流した。そのなかに「あいさつ」シリーズがある。挨拶すれば仲間が増えるが、挨拶しないと仲間はずれに。これ、考えてみると怖い話だ。挨拶しないやつは仲間じゃないのか。 もちろん、挨拶はコミュニケーションの第一歩である。挨拶はした方が良いに決まっている。しかし、挨拶をしなければ仲間はずれにされるという設定には猛然と腹が立った。挨拶の有無で、その存在まで左右されるのだろうか。挨拶をしないやつは仲間はずれにされて当然なのだろうか。同じような問題に国旗掲揚、国歌斉唱問題がある。しかもこれが教育者の踏み絵にまでされている。権力者は、礼を失すると戦前の不敬罪にあたると見ているようだ――もちろん、そんなことは口にしないが――が、憲法における思想の自由(第十九条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)は、権力者の裁量権を認めているのだろうか。
奇しくも同じIDEE-124号には「これで楽になるでしょう」という記事が掲載されている。私はてっきり著者の言葉だと思い読み始めたが、実は権力側の「長いものには巻かれろ」という意味だったようだ。この政策を推し進める側は「日本人として当たり前のことだ」と言い切るが、赤紙一枚で国民を戦地に送り込み戦闘どころか餓死させていたのは日の丸に象徴される国家ではなかったのか。国民はそういう扱いを受けることが現憲法下でも当然のことなのだろうか。挨拶問題と同様、極めて不可解なメッセージである。
日本国民――帰化された方はともかくとして――というのは、各人が選んでなるわけではない。生まれた瞬間から、いや正確には誕生の前から日本人として生を受けているのであり、日の丸に礼をしたり、国歌斉唱を規律正しく行ったりすることで日本国民になるわけではない。日の丸や国歌に嫌な想い出を持つ者もいる。強要される事そのものに抵抗を感じる者もいる。だからと言って、国旗国歌そのものを軽視しているわけではない。そういった彼らに、日の丸に礼をしろ、国歌斉唱をしろと命令することと、従わなければ愛国心がないと断罪することの間に整合性があるとは、とうてい思われない。虚礼を強要し、概観だけを整えようとすることの方が、国旗・国歌の軽視ではないだろうか。だいたい、国旗・国歌を重視する者に限って、「日本人の恥」といわれるような行為をしている者が意外に多いようである。
挨拶には二通りあると思う。 ルールとしての挨拶と、真心のこもった挨拶である。前者は「おまじない」のようなもの。まさに虚礼である。もうひとつは、生活を楽しくさせてくれる挨拶だ。いちいち声を出さずとも目と目で交わすことも出来る挨拶で、ほんのりと幸せ気分になれる。ペットとの会話も、これに近いものがある。恋人同士なら、周りが気付かない挨拶もあろう。つまり言葉は記号にすぎないわけで、記号に記号以上の意味をもたせないのが虚礼ということだろう。とはいうものの、私自身は年が明けないと年賀状を書かない。どうも書く気にならないのである。年末に書き始めたこともあるが、どうも筆が止まる。結局、そのとき書いたのは仕事関係のみであった。
私が年賀状を年末に書かない理由は、一枚一枚にメッセージを書き込むからだ。虚礼にすぎない年賀状ではあるが、やはり相手の顔を思い出しながら書きたい。そのためには、慌しい年末に書くのは難しいのだ。同一文なら簡単だが、それでは虚礼を通り越してDM(ダイレクトメール)になってしまう。年賀状に一言添えることで、二言居士の述べる「出すこと自体に意味がある。『虚礼』として」という価値が生まれるのではないだろうか。
年賀状の一番のポイントは、相手の元気度がそれなりに分かる点だ。改めて手紙を送るのは大袈裟だし、メールではそっけない。その点、年賀状は「虚礼」であるが故の軽さと儀礼的な重みが重ね合わされており、極めて便利な方法である。ただし、「虚礼」であるが故の侘しさを味わうことがある。「欠礼」のお知らせだ。親しかった友人の場合は正月がすぎてからゆっくりと手紙を書くことになるが、本人の気持ちを察すれば「何と書こうか」と今から思い悩む。亡くなられた方が超ご高齢の場合は、「致し方ない」とも思うのだが、伴侶や子供の場合は言葉に詰まる。単なる虚礼だが、それなりに人生模様が浮かび上がるのである。また、年賀状全体から見れば、世相や歴史を読み解くとも出来る。関心のある方には『年賀状の戦後史』(内藤洋介著、角川書店、2011.)が参考になるだろう。



